宿なし車中泊の楽しい車旅 夢街道を走る [車旅]
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今日は私の父親の故郷、佐賀県の唐津街道を訪ねます。
古い話ですが、私は終戦を台湾で迎えました、まだ2歳でその当時のことは
まったく覚えていません。
父が台湾で、そこそこの建築設計事務所を持っていて日本人居住地域でも恵
まれた生活をしていたそうですが、終戦の年に父は病気で他界・・・
26歳だった母は、広い土地家屋・貴金属・財産の殆どを没収され、3人の
子供を連れて日本へ引き揚げて帰ってきました。
父の里、佐賀県の実家に父の遺骨を持って行き、実家のお墓に入れて貰うよ
うに頼みに行ったところ、兄嫁に断られた因縁の場所です。
父の実家を知っている母も亡くなり、古い住所を頼りにインターネットで調
べ67年ぶりに父の実家を探しに出かけたのが「唐津街道」という所でした。
街中に佇む細川忠興の小倉城
小倉城は小倉駅からも近く歩いても10~15分位です。堀のすぐ前は賑やかな
繁華街で、江戸時代の城との対比も面白いものです。
四階と五階の間に庇のないユニークな唐造りの天守閣がゆったりとした城内
に映えます。
今日は私の父親の故郷、佐賀県の唐津街道を訪ねます。
古い話ですが、私は終戦を台湾で迎えました、まだ2歳でその当時のことは
まったく覚えていません。
父が台湾で、そこそこの建築設計事務所を持っていて日本人居住地域でも恵
まれた生活をしていたそうですが、終戦の年に父は病気で他界・・・
26歳だった母は、広い土地家屋・貴金属・財産の殆どを没収され、3人の
子供を連れて日本へ引き揚げて帰ってきました。
父の里、佐賀県の実家に父の遺骨を持って行き、実家のお墓に入れて貰うよ
うに頼みに行ったところ、兄嫁に断られた因縁の場所です。
父の実家を知っている母も亡くなり、古い住所を頼りにインターネットで調
べ67年ぶりに父の実家を探しに出かけたのが「唐津街道」という所でした。
街中に佇む細川忠興の小倉城
小倉城は小倉駅からも近く歩いても10~15分位です。堀のすぐ前は賑やかな
繁華街で、江戸時代の城との対比も面白いものです。
四階と五階の間に庇のないユニークな唐造りの天守閣がゆったりとした城内
に映えます。
唐津街道
長崎街道の小倉を起点として二つ目の宿場「木屋瀬宿」から西へ折れて赤間
に出て、国道3号線の内側を畦町~青柳~箱崎~博多と通って福岡に出るのが
内宿通りと呼ばれています、
また、江戸時代に参勤交代のための道として現在のような唐津街道が整備さ
れており、当初は陸路で若松までのぼり、若松から大阪まで船で参勤してい
ましたが、その後、若松からの船による参勤が禁止されたため、赤間から長
崎街道の木屋瀬、黒崎の陸路に変わっていったそうです
唐津に至るには更に海岸沿いを西へと進みますが、北九州の若松から芦屋を
も経て赤間へ至るルート等も唐津街道と呼ばれているようです。
その他にもいろいろ「唐津街道」と呼ばれている道路はあるようです。
畦町までは、猿田峠を始めとして小さな峠もいくつかありますが、その後は
海岸通りが多く、平坦な道が続きますので気楽なドライブを楽しんで下さい。
ださい。
また、北九州から唐津まで、ずっと海岸線が続いているため、古代から大陸
との交流も多く、たくさんの遺跡が散在していることでも有名です。
戦国時代には秀吉が朝鮮出兵の際に、その前線基地として唐津街道の終着地
近くの呼子に名護屋城を築きました。
そこに徳川家康以下全国から諸大名武将を集結させ2度にわたって朝鮮へ侵
攻しています。
その時も多くの武将達が、この唐津街道を行きかったといわれています。
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今日は私の父親の故郷、佐賀県の唐津街道を訪ねます。
古い話ですが、私は終戦を台湾で迎えました、まだ2歳でその当時のことは
まったく覚えていません。
父が台湾で、そこそこの建築設計事務所を持っていて日本人居住地域でも恵
まれた生活をしていたそうですが、終戦の年に父は病気で他界・・・
26歳だった母は、広い土地家屋・貴金属・財産の殆どを没収され、3人の
子供を連れて日本へ引き揚げて帰ってきました。
父の里、佐賀県の実家に父の遺骨を持って行き、実家のお墓に入れて貰うよ
うに頼みに行ったところ、兄嫁に断られた因縁の場所です。
父の実家を知っている母も亡くなり、古い住所を頼りにインターネットで調
べ67年ぶりに父の実家を探しに出かけたのが「唐津街道」という所でした。
街中に佇む細川忠興の小倉城
小倉城は小倉駅からも近く歩いても10~15分位です。堀のすぐ前は賑やかな
繁華街で、江戸時代の城との対比も面白いものです。
四階と五階の間に庇のないユニークな唐造りの天守閣がゆったりとした城内
に映えます。
今日は私の父親の故郷、佐賀県の唐津街道を訪ねます。
古い話ですが、私は終戦を台湾で迎えました、まだ2歳でその当時のことは
まったく覚えていません。
父が台湾で、そこそこの建築設計事務所を持っていて日本人居住地域でも恵
まれた生活をしていたそうですが、終戦の年に父は病気で他界・・・
26歳だった母は、広い土地家屋・貴金属・財産の殆どを没収され、3人の
子供を連れて日本へ引き揚げて帰ってきました。
父の里、佐賀県の実家に父の遺骨を持って行き、実家のお墓に入れて貰うよ
うに頼みに行ったところ、兄嫁に断られた因縁の場所です。
父の実家を知っている母も亡くなり、古い住所を頼りにインターネットで調
べ67年ぶりに父の実家を探しに出かけたのが「唐津街道」という所でした。
街中に佇む細川忠興の小倉城
小倉城は小倉駅からも近く歩いても10~15分位です。堀のすぐ前は賑やかな
繁華街で、江戸時代の城との対比も面白いものです。
四階と五階の間に庇のないユニークな唐造りの天守閣がゆったりとした城内
に映えます。
小倉城天守閣 |
城主細川忠興の別邸 |
唐津街道
長崎街道の小倉を起点として二つ目の宿場「木屋瀬宿」から西へ折れて赤間
に出て、国道3号線の内側を畦町~青柳~箱崎~博多と通って福岡に出るのが
内宿通りと呼ばれています、
また、江戸時代に参勤交代のための道として現在のような唐津街道が整備さ
れており、当初は陸路で若松までのぼり、若松から大阪まで船で参勤してい
ましたが、その後、若松からの船による参勤が禁止されたため、赤間から長
崎街道の木屋瀬、黒崎の陸路に変わっていったそうです
唐津に至るには更に海岸沿いを西へと進みますが、北九州の若松から芦屋を
も経て赤間へ至るルート等も唐津街道と呼ばれているようです。
その他にもいろいろ「唐津街道」と呼ばれている道路はあるようです。
畦町までは、猿田峠を始めとして小さな峠もいくつかありますが、その後は
海岸通りが多く、平坦な道が続きますので気楽なドライブを楽しんで下さい。
ださい。
また、北九州から唐津まで、ずっと海岸線が続いているため、古代から大陸
との交流も多く、たくさんの遺跡が散在していることでも有名です。
戦国時代には秀吉が朝鮮出兵の際に、その前線基地として唐津街道の終着地
近くの呼子に名護屋城を築きました。
そこに徳川家康以下全国から諸大名武将を集結させ2度にわたって朝鮮へ侵
攻しています。
その時も多くの武将達が、この唐津街道を行きかったといわれています。
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